開出今移民物語  日本移民史の流れ

日本移民史の流れ

 

嘉永六年(1853年)ペリーが浦和に来航し、これが契機となり、安政六年には有名な安政の大獄事件、万延元年には桜田門外事変で井伊大老が暗殺された。尊皇壌夷がふくれ上がり遂に大政奉還、明治天皇の五箇条御誓文の発布となり、外国に目を向ける民衆も漸次多くなった。もっとも徳川幕府は慶応二年海外渡航禁止令を解いてはいたが、この明治の夜明けと過剰人口を抱え、さらには外資事情に苦慮した政府が移民政策を考え始めると、西南戦争後即ち1880年頃から政府の国策に副い全国各地に移民会社が叢生した。この会社は、可成の数の移民希望者を周旋人からかき集め移民輸出に力を貸したし、従って相当な利益も上

げたと言われいる。一定の周旋料を収めると、海外渡航の一切即ち旅券・船便横浜での旅館等、すべてを取り仕切ってくれるので便利な存在であった。彦根の川原町にもその移民会社があって専らこの地方の人達が利用したらしい。

旅券の斡旋と言っても最初の頃は好い加減なもので、ハワイまたはハワイ経由アメリカ本土転航が主で今の言葉で言えばあくどい稼ぎに乗っての所産でもあった。

ご多分に洩れず開出今の煎先達も、川原町にあった移民会社の厄介になった人が可成あったらしい。

発展途上のアメリカ・カナダ政府の入国手続きはまだそれ程厳重でもなく、目こぼしも可成あった。また「見せ金」が必要の時もあり、二百円が相場で、この「見せ金」調達には渡航者一様に苦労している。当時の二百円は恐ろしい大金で、親戚をかけめぐってもなかなか集められない金額であった。柳行季一箇をかついで旅立つ前にも、こんな血のにじむ思いをしていたのである。