開出今移民物語  水害と出稼ぎ

 

前編明治二十八年大風水害の項で述べたように、これが与えた打撃はかって経験したことのない程のひどさで、殊に湖岸の八坂・須越・三津屋・大藪・松原などは、住宅の浸水・倒壊は言うに及ばず、生計を立てている田畑の冠水等により、その復旧より先ずその日の生活にもこと欠く有様に、住民は一時途方に暮れてしまった。当時の住民の苦悩の深刻さを思い浮かべると、実に涙を禁じ得ないものがある。恐らく京都・大阪などの都会へ散って行った人もあったであろう。その結実の一例として、三津屋町の人達が京都・大阪での質屋業の成功を挙げることが出来るが、これて資金と長い経験を要する事業で、誰でもが入っていけ

る職業ではなかった。

 手っ取り早く金をんで生計を早く樹て直す方法は、当時の日本ではそんなに見当たらなかった。そこで“金の卵が降る国”として漸く渡航熱が昇りつつあったアメリカへの出稼ぎが考えられ始めたのである。

 徒手空拳で金を得られる方法として、湖岸の若者が北米へ北米へ草木もなびくように流れて行ったのは至極当然であったと考えられる。

 後年、八坂が和歌山県三尾村の「アメリカ村」と比較して「近江のアメリカ村」と称される程、挙村一致北米への渡航が始まった最大の原因がここにあった。

 また河瀬駅の開駅が明治三十年まで遅れていた頃、この寒村では京・大阪との頻繁な交流も望めない環境だったし、隣村の流行が開出今にも伝わらない筈がない訳である。

 天秤棒を肩に全国各地に活躍した中正の伝統を受け継いでいる開出今の若者の血は沸き、遠い太平洋の彼方、未知の大陸への憧憬と冒険心は、柳行季一つだけを肩に夢を求

めて故郷を後にする人が相次いだのである。

 逆境に遭遇した時にこそ、人は真価を発揮すると言われるが、叩きのめされた水害被災の禍を、見事に福と化した実証を、当時の開出今に見ることが出来る。