第四章の中から下記の項目について掲載しています。

  小字蔵ノ町

  五箇商人

  開出今精神のめばえ

  菅原神社創建

  小字名縁起

  居住地帯・耕作地帯

小字蔵ノ町は、現在新興住宅地「蔵ノ町団地」として開発され、その名が知られるよう

になっているが往古、物資保管のための倉庫が林立し軒を並べていたところから、この

名があるとわれている地である。

八坂港繁栄の頃、開出今商人が八坂港を舞台に他所の商人に引けを取らないように、

この蔵ノ町を拠点として盛んにいどんだ由緒ある旧蹟だろうと考えられる。

享禄年間(1528年頃)鈴鹿峠を越えて北伊勢方面と通商していた山越商人または

四本商人が八日市辺りにいた。これに対し神崎郡南・北五個村を中心とした「五箇商

人」と称する総体の存在が、六角定頼の書状に見える。またその行商専業者の集団

地として、八坂・開出今・薩摩・田中江等が見えるし、その扱い商品の中に、茶・油

および荏胡麻等が伺えると「滋賀史」は記述している。

中世荘園時代の交易商人については「座」と言う名目で、地方の豪族の強力な庇護

の下、商売が行われていた。「五箇商人」の一角を占めていたとの記録があるよう

に、開出今商人の活躍は随分長期に安定した「座」が行われていたのではないかと

えられる。

以上の諸状勢からみて、中世期開出今村の住人は、可成の人が近江商人のはしりとも

いうべき行商に従事していたと想像される。

中世期、開出今商人の発生とその活躍振りを古い記録から発見してゆくと確かに生業

中から生まれた発露ではあるが、民百姓が虫けらのように扱われていた時代に、世

情不安・交通不便等の障害を乗り越えて、天秤棒一本を担って、敢然と行商に生命を

掛けたであろう我等の先人達の進歩的な意気には、本当に尊敬の念を感じざるを得な

い。

我が開出今には、このパイオニヤ(開拓者)精神が脈々と子孫に伝わっている。明

治維新で新時代に入っても、その時勢におされることもなく、何としても自家の基

礎を作り上げて立な「ふるさと」開出今の出現を祈った。そして勇猛果敢に故郷

を飛び出して「海外」という新天地を見出し活躍の場を作った。実際にその成果も

収め、今日の整然とした立派な家並みの町内を作り上げたものは、やはりかの中世

開出今行商人の偉大な足跡が、その因をなしているのだとしみじみ感じるのである。

今日、他所からの訪問者が、町内に入って来て家並みを見ただけで「何と裕福な町

だなあ」と感じ一様に口を揃えて称される。このように称賛されると、本当に嬉し

く、誇りに感じるだが、その裏には先人の汗と油の結晶のあることを忘れてはな

らない。そして新たな発奮を期せざるを得ないのである

当開出今町民が氏神として祀っている菅原神社は、貞享三寅年1686)三月十七

満願禅寺中興の開山・大亀金葉師の手によって京都北野神社より、その分身を受け

点眼されたと、菅原神社所蔵の文書に見受けられる。

明治九年十月には村社に列し、明治十一年八月には従来の神号「天満神社」が現在

の「菅原神社」に改められている。昭和二十八年八月十一日には「宗教法人菅原神

社」として発足し、神社庁に属して今日に至っている。

その創建時代の宮世話から、運営が掃除講にゆだねられるようになったのは、掃除

講が明治十一年二月十四日に結成されてから以後のことである。

掃除講は、いわゆる「若衆」によって結成されるのだが、取締・役ぬけ・鐘預かり・

太鼓預かり・そして半元服の前髪の階級に分かれていた。

十二歳になると「前髪」に入らねばならない。前髪には年齢に応じ新座・中座・高

の三階級があり、最年長の高座(十四歳)が指揮を執り、取締の指示する神社の

雑務を受け持つことになっていた。そして十五歳になると、オコナイを機して元服

し「若衆」となり、正式に掃除講員として入講が認められると、三年間「太鼓預か

り」に任ぜられる。さらに十八歳からは「鐘預かり」として次の三年間を経て二十

一歳になると、徴兵令により兵役に服する義務が生じ、故郷を離れることになるの

で「役抜け」となる。

兵役を済まし帰郷すると、「取締」の役が待っている。信頼される帰郷者が、神社

最高責任者である「取締」に任ぜられ、結婚前の一時期、社務一切と掃除講員一同

の風紀その他の取締に当たったのである。

しかしこの掃除講も、昭和十六年頃、迫り来る戦争の余波を受けて解散となり、以

神社の管理・運営は氏子総代と宮仕にゆだねられている。

掃除講の出来たのは、前述のように明治十一年だが、これとは別に敬神団体として

「天満講」と言う組織が二百年前からあった。

これは氏子中地位・名座あるもの、即ち庄屋・横目・組頭等の人達六・七名で組織

されたもので、毎年執行されるオコナイに際し、神供を捧げる役を賜っていたので

る。

オコナイの前日より、当番二名が自分の家で潔斎し、一斗の糯米を一重につき上げ

調達し、当日瓶子に満たした神酒と共に飾り、身は上下の正装に威儀を正し、行列

を組み神社まで行進し、これを神前に供え神事に列している。文久の頃よりは講員

が数十名に増加し、明治十二年頃よりは羽織袴に改ったと言われている。

彦根史談会編集になる「彦根旧記集成」の「開出今」の項を基にして小字名の一覧を掲げ、これに関する縁起を考えてみる。

(一)居住地帯

「居住地を区分して三区とし、東出・中出・西出とし、青柳天神の時代から若連中を組織する場合などの区画とした」と「彦根旧記集成」の記述するように、村内には往古 東出・中出・西出の三地区

に区分されていたが、前述のように明治十一年掃除講が結成されていた際にも東出掃除講・中出掃除講・西出掃除講とそれぞれの区に別々に掃除講が結成されていたことが記録されている。

十五歳になり、元服して掃除講に入る際も、それぞれの区の取締の許可がなければ入講が認められない程、厳格な法になっており、お祭の「のぼり竿」も東出・中出・西出それぞれが立派なものを持っていたのである。

 (二)耕作地帯

(1)東出・一ノ坪

「東出は一名円満時と言い寺跡と伝わる」とあるのは、天正年間15731591)織田信長による兵火で焼出され滅亡した寺院「円満寺」が、この地あったと言われ、その名が残っている地である。寺院の規模やその他一切が神秘的な謎に包まれているので、開出今の住民にとっては、脳裡から永遠に忘れられないロマンがある。

2)小字馬場一ヨリ四まで(以下小字省略)

「承応年間(1652年頃)馬場一ヨリ馬場四の間に競馬場が存在したと伝わっている」とあるがこの事蹟から、競馬場跡を「小字馬場」と命名されたものと考えられる。承応年間から貞享年間までの

間が競馬場だったとの言い伝えなので、約三十年の短い期間であったらしい。紋日に開かれたであろう競馬会には、「馬の会」見物に近隣の村落の人達も多数詰めかけて来るので、さぞかし村中は賑やかであったろうと想像される。

(4)八神

往時八畝あったので、この名がついたと言われ、菅原神社のお旅所である。だから開出今住民にとっては、ここは聖域として尊ばれている場所である。

(5)殿街道

「一名(はたち)とも言い巡礼街道に沿っている」と記述されているが、巡礼街道については、金亀山・彦根寺に通じ、巡礼者が参拝した道としてこの名がつけられたものである。井伊家が、彦根に築城した頃の古地図にも「巡礼街道」の名が出ている古い歴史がある街道であり、白河法皇が彦根寺へ参拝された故事で一名「御幸道」とも言う。

(9)吉原

「住宅地帯に近い関係から雀が集まったため、吉原雀と名付けたと言う説がある。または葭原か」

 (10)森の下

「馬場四につづき森があった所と伝わっている」とあり、大正年間、小字森の下の田圃から、朽ちた古木の幹が掘り起こされた例が古老によって語られている。この地域から東にかけては、往時森が繁っていたということが本当だったと考えられる。

菅原神社創建以前の守護神「古宮」がこの辺りに鎮座されていたと言われることも、この辺り一帯が「宮の庄」とも呼ばれていた点を考え合わせると、故なきに非ずと言える訳である。

菅原神社は前述のように貞享三寅年に、満願寺住職・大亀葉師の手によって京都・北野神社から受けた分身が、現在地に祀られたものであるが、従前の守護神をこの時から「古宮」と呼び、新たな氏神を「若宮」と言い習わされたものらしい。菅原神社祭礼の日、みこし渡御の際の「ハヤシ言葉」の中に、「東西東西、本日は菅原神社の祭礼につき日も晴天に相成り、若宮様にはお旅所に楽遊び伝々」とあり、古宮さん・若宮さんの呼称は、伝統として言い継がれている訳である。

因みに古宮祭は、往時四月十八日に行われていたが、現在は菅原神社祭礼の際、鏡餅一重を神前に供え、古宮さんを祈念している。

(11)西海道(西街道)

「西出街道の便があったからと思われる」

(13)あぜら町

「ここは水利の便よく、苗代地として古くより利用されている」

(15)上朱雀院・下朱雀院

現在農免道路で、蔵ノ町団地への道になっているのが「朱雀院道」と言われていた道路である。甘呂町の古甘呂に副った地域にも同名朱雀院がある。この朱雀院は甘呂の肇とも言われるほど程の地で、古い寺院のあった所、聖徳太子像が祀られていたと伝わっている。

甘呂のこの朱雀院との関連の有無については興味ある問題と考えられる。

(17)上七反地

「明治十四年及び昭和二年の報告によると(七反地)とありその以前に(上七反地)と称したと記載している」

(19)三の坪

「承応年間、この一部は墓地になった由」

(20)七ノ坪・八ノ坪・九ノ坪

「この三小字(満願寺林)と称した。満願寺の所有によるか」

(21)六ノ坪・五ノ坪・四ノ坪

「この三小字を総称して、元(野瀬畑)とも言った。西今町・尾本織石ェ門氏の所有地であったためか?」

(28)上柳・下柳

「この二小字は柳が繁っていたからと伝える」

(30)十五・十六・血原

十五・十六才の若者が喧嘩した故事からこの名が付いたと言われ、その喧嘩で血の雨が降り、血の原になったことから血原と言われるようになったらしい。

 

(34)蔵ノ町

「明治十四年の調によると別に(北蔵ノ町)がある」と記されている。いつの時代に出来たかは不明だが「万造山」と言われた小高い丘があったらしい。多分犬上川氾濫の際に出来あがっていたと思われる。彦根市開発公社によって、昭和四十七年五月に宅地造成され、新しい集落が形成され、「蔵の町団地」と称されている。

(35)十ノ坪

「十坪五十人川原」

(36)上持川原・下持川原

「犬上川下流にあたり竹林である。元の川筋か」

(37)中庄堺・庄堺・北庄堺

「野瀬領との境界にある」

(38)上流・下流

「大降雨の際、溢水して川になるがため」

(42)蛇塚

「愛知郡薩摩善照寺の寺侍が自殺した地と言われている」

(43)横街道

「横海街・はさま」

(44)三ツ淵

「旧犬上川の川筋にあたる。犬上川は大薮町南川に通じていた由で

ある」

(45)南新八川原・西新八川原・北新八川原

「この三小字はそれぞれ旧犬上川の川筋と伝えられている」

(46)北穴田・穴田・上穴田・西穴田

「開出今は元(賽田郷)と言い、穴田君の開拓地と伝えられている。年々犬上川の氾濫に難渋し、現住地に移った由。また小字穴田は一名(定納)とも言う。凶作の年と雖も年貢の減免は認められなかた地と伝わっている」

昭和四十二年、彦根市によって小字穴田・西穴田・三淵・南新八川原・北新八川原の地に住宅が新たに造成された。そしてこの地が「開出今団地」と称されることになった。