古い開出今の話   過去の風水害

第六章 近世以降の開出今

1.犬上川両岸堤防の構築

2.明治二十九年の大風水害

3.昭和二十八年の台風十三号の災害

4.昭和三十三年の台風十七号の災害

5.昭和三十四年の伊勢湾台風の災害

について紹介します。

(一) 犬上川両岸の堤防構築

犬上川堤防構築についての記録が開出今町内会に残されている。これによ

って考えると、現在の堤防が構築されたのは、明治十年に始まって明治十

七年完成したようである。それまでは、河川敷内の竹藪中程に、現在でも

その趾のように両岸共に残っている「中どて」が堤防の役目を果たしてい

たらしい。

この堤防構築には、村民総出を交替で行って作業に従事している。犬上川

河原から「じょうりん」で土砂を詰めた「もっこ」を担ぎ、汗をかきなが

ら坂を昇り、堤防を少しずつ築いていったものである。一荷持つと竹の皮

の板一枚が区長から与えられ、これが何枚かたまることで、日当が支払わ

れたものと故老は伝えている。大変な苦労でできあがったものである。

(二) 明治29年の大風水害

台風による風水害は、大小に拘らず年々被害を蒙る宿命を持つ日本だ

が、明治二十九年八月二十日から九月にかけて襲った豪雨は、徹底的な

いためつけを湖東の近在に与えた。

湖岸の大藪・八坂・須越・三津屋等の田畑の冠水は言うに及ばず、家屋

の浸水・倒壊数知れない。経済的には立ち直り不可能な程の損害を住民

に強いた記録的な台風であった。我が開出今にも、猛烈なパンチが加え

られた。

当時の模様を記録した文書が堀居重蔵氏宅に保存されている。これによ

って再現してみる。

 

「明治廿九年の大風雨の記せしに、この時八月二十日なり。最も激烈な

る大風雨にて人民鳥獣迄も困難を来たせし事は稀少の風雨にて竹木毀

し、田畑を荒らし人家を激減せしめ夥しく人民傷死せしも是亦累なき

一夜にて止みしも、又重ねて翌月六日激烈なる雨降続き翌七日大洪水に

して諸川の堤防破壊し山林竹木は落流し己而ならず、山崩れ山家も潰流

し人民困難思ふに不堪、尚其水ならず、この時湖岸の町村悉く皆浸水し

家屋を潰没し竹林諸道具迄流出す。実に何処とても稲作野采迄も水底に

し萬采一切に困難を来之誠村内迄も浸水せしに、湖岸の磯田村部内四ケ

村よりは当村へ上がり、爰の日九月九日なり。追々村内へ船舶を繋ぎ当

村覚勝寺本堂へ入込み水増し、人増加し道具運搬して一時戦地に立入る

有様に御座候も、同月拾五日頃より追々人家に入り組み漸く一家の膳を

なす事なり然れ共困難は思ふに不堪依って茲に累書せしなりし、大風の

為に社内の大木四本敗れ人家九戸、小屋三ツ潰家氏名を記し置く。西村

藤八、堀居新四郎西村利平、寺村ユキ、西村トキ、西村彦次郎大山四郎

平、西村外次郎、今村シナの各戸なり。

小屋潰し氏名は川嶋弥平、寺村長平、松林文六の三戸なりしも、右六日

大雨為諸川の堤防破壊せしに当村神仏の御陰にて処々摺落ち右七日より

十日迄は川出せし度数々度なりしも、原二カ所順礼海道迄弐ケ所にて人

民難苦一方ならざる事なり。田畑の荒れたる事は当村にて惣反別七百反

なりしも、内百反は水口にして米見る不能なり。昰此大水は爰の時百二

三拾年前彦根通町蓮花寺前へ浸水せしに続くなりしと戓人書置きありと

聞き及ぶも如何せし。此大水は彦根にて南池須アイ町中通、下本町議事

堂前北東通り二丁目沢西に方り、井伊神社前より外船町、上藪下町に至

て悉皆浸水し人民住居は二階三階に住み困難の事あり。依って茲に天

皇皇后両陛下より金七千圓下賜せられし事は人民困難を召され当県下へ

賜はる下併余り天災とは申しながら実に残念極ノ事故為後年書置記事と

なす。

滋賀県近江国

犬上郡南青柳村大字開出今

明治二十九年九月廿八日調

爰時  十七才

堀居 佐吉

 

以上原文のままだが、これを見ても如何に悲惨であったかが忍ばれる。七日間も雨が降り続いたのだから手の施しようがなかったと思われる。大藪の被害も甚大で全戸浸水はもちろん、巡礼街道は平田大沢近くまで全面的な田畑冠水で収穫皆無になるし、その爪跡の復旧は殆んど絶望的と言われる程だった。また磯田村の惨状は筆舌を絶したものであった。八坂の「頭無し」の北堤防の流出で、小高い山が十箇所位出来てしまった。そしてこの山は、県立短大が設定され、キャンパスとして整地された時代まで残っていた。

(現在の彦根市民病院付近)

(三) 昭和28年13号台風の災害

昭和二十八年十三号台風は、九月二十三日から九月二十五日にかけて、彦根地方に猛威を振った。特に我が開出今町に対しては未曽有の被害を与えた悪夢の台風であった。

彦根地方気象台の記録によると、その年は八月三日頃から雨が降り続き、八月中既に159.1ミリの雨量があり、九月には352.2ミリの多きに達している。十三号台風は九月二十三日頃から近畿に接近し雨量が増して来て、九月二十五日十八時前後がピークになった。夕方から風は北西に変わり、いわゆる「ジリ北」と言う昔から恐ろしいと伝えられている状態になった。

雨量の増大は犬上川ダムの貯水も一杯になり、持ち切れず一気に三つの水門が開かれた。ド-ッと犬上川へ放水されると、川は満水になり濁流となって下流へ押し寄せて来たのである。

開出今町東川原辺は、犬上川の屈折する箇所であり、川幅も一番狭い地点であるため、堤防べりの民家の屋根の高さを越える程の水位が観測され、堤防底部は各所で漏水が認められ、決潰寸前の様相で危険になった。警鐘は乱打され穴俵や畳が用意された。老若の婦女子の一部は覚勝寺本堂に避難する人達もあった。

今橋・庄堺橋は流出し、南青柳橋の通行も危険に瀕した。その頃巡礼街道より下流で左右両岸の決潰が始まり、そのため犬上川の水位が急激に下がったので、東川原の決潰は避けられたのであった。

堤防の決潰は左岸では、西街道をはさんで上引・下引・朱雀院辺り、右岸では庄堺・持川原地先新海の五箇所だが、白波をけたてて押し寄せる流水は、怒涛の如くすさまじく身の毛もよだつ程で、稔りの青田に襲いかかり、美田は一瞬にして砂礫化してしまった。そしてその奔流は、町内西部にまで及び数戸が床下浸水の難に遇ったのである。更に強い水の流れは、甘呂・八坂の田にも及び冠水の被害を与えた。

 

この未曽有の惨禍に見舞われた町民は、どのように手をつけてよいか、暫し呆然とするばかりだった。しかしこれは一日も放置しておけない問題である。町内会では速刻全町民に一致協力しての復旧を呼びかけ、翌日から全力投球の作業が始まった。

市当局も早速救援体制をとったので復旧工事は軌道に乗り、連日町民の出動で作業が続けられていった。スコップとリヤカーだけでの人海戦術では広い地域に拡がった砂礫を取り除くのは容易な業でなない。十月初旬にはレールが敷かれその上をトロッコが走るようになり、作業がはかどるようになったが、出番になれば寒風吹きすさぶ冬の間中、朝早くから現場に立ち、手の豆を作り、汗をたらたら流し、重労働に耐えながら、少しずつ土砂を運ぶ毎日が続いた。その間に八坂・須越・三津屋・日夏・野瀬・大藪・中藪等市内各所から応援にかけつけ、作業に奉仕する心からなる援助を受けつつ、6箇月近く費やして見事完工し、昔日の姿を見ることが出来るようになった。

市・県当局が当町のこの水害に示した温かい対応は非常なもので、多大な対策費が投入されたお陰で復旧が可能になったものだが、これには当町の町内会長稲本嘉七氏の力にあずかるところ多大であった。当局の権力発動を単に求めるのではなく、「援助のお願い」を基本的な考えにおいた

方針が、官民一致に繋がったとは、同氏の述懐から窺えるのである。

また稲本氏の復旧工事に対する熱意は異状な程であった。寝食を忘れ、町民の先頭に立って陣頭指揮をし、献身的に行動された功績は永久に忘れ得ぬところである。朝早く、まだ誰も出てこない時刻に先立って工事現場に出て、一人黙々として、腰をかがめて溝を修理し、排水の調子を観察している姿を見た時など、稲本さんの頭から御光が差していると思わず涙を禁じ得なかったと当時の工事関係者は語っている。

(四) 昭和33年17号台風の災害

昭和三十三年台風十七号が八月二十五日彦根地方をまた襲った。雨量が昭和二十八年十三号台風に次ぐ多量で、夕方から東の風が強くなり、午後十二時頃から一時頃が最高頂であって、今橋・庄堺橋がまた流された。庄堺橋はそれまでは、川の流れの部分だけに簡単な橋がかかり、川原の部分は幅広の橋板を二枚並べただけの粗末なものだった。

この橋がそっくり琵琶湖に流れ出し漂流し、長浜の北、南浜に吹き寄せたとの報に接したのだった。橋板に刻印がきざんであったので判明したのである。

早速翌日、町民四十人で組織された「引取隊」は町内会長・稲本嘉七氏の指揮で現地へ出向いた。南浜に到着し、橋桁・橋板等を二束に縛って筏に組み、その上に十五人ばかりが乗りポンポン漁船の曳行で湖上を帰ことになったが、その途中すざましい雷雨に見舞われた。波にあふられてふらふらと揺れるし、今にも転覆しそうで恐ろしさに生きた心地もしない広い湖上の真只中の出来ごとだった。漸く水上警備隊の救助で九死に一生を得て八坂の浜に辿りつき、そこからトラックで菅原神社境内運び込んだと言う恐怖の遭難の事実があった。

流失した庄堺橋

この画像は琵琶湖博物館の掲載承認を得ています。

無断複製は禁じられています。

 

 

 

 

現在の庄堺橋

 開出今橋新設により現在は通行止め。

 平成22年の町内会総会にで撤去要請を議決し、彦根市に

 撤去要望書を提出。       撮影 平成23年12月

 

 2016年4月撤去完了

(五) 伊勢湾台風の災害

昭和三十四年、当町は再度台風のパンチを喰らった。九月二十六日の伊勢湾台風の被害である。

中部東海地区特に名古屋方面で決定的な被害を与えた伊勢湾台風は、彦根地方では、台風の目が百キロ東に離れていたとは言え、鈴鹿山系の豪雨は集中的で、九月二十四日頃より激しくなっていた。この年も九月中の降雨量が463.3ミリと記録される程の雨台風だった。九月二十六日十八時頃は一時間百ミリも降っている。このため犬上川ダムがまた一斉放水になったので、琵琶湖の高水位と相まって犬上川の水はけが極度に悪く、弱い箇所である当町の堤防三箇所と、今橋・庄堺橋流出の被害を受けたのである。

犬上川左岸で上引・オネビ、右岸で持川原辺りの決壊潰で埋没田が約二十反に及んでいる。

その復旧工事は昭和二十八年十三号台風と同様、町民が交替出動してその作業に当たり、翌年の植え付けに支障のないよう立派に出来あがったのである。

だから現在台風の爪跡としては何の痕跡もない。そして稔りの秋を毎年迎えられる有難さを思う時、度重なる不幸にもめげず、利己を捨てて皆が一致協力して事に当たった尊い賜の成果であって、心のつながりの大切さをしみじみ感じるものである。