古い開出今の話   バルブ工業界の開祖

 

 

彦根市のバルブは仏壇と共に、重要な地場産業として伝統的に重きをなしている。この事業の盛衰は彦根の好不況に直ぐ影響を及ぼす程であり、全国的にも川口市を中心とした東京地方や、名古屋周辺地帯と比肩して主要産地としてのシェアを占めている。このバルブ工業がここまで発展した由来は、明治二十八年頃器用な先覚者・門野留吉氏(旧姓・尾本)の努力にその端を発したものと伝えられている。

そしてその門野留吉氏は、我が開出今の出身であり、この人については、「彦根市史」が詳しく述べているでこれを引見してみる。

 

「犬上郡開出今村尾本万次郎二男留吉は京都市寺町通夷川の金師浅田吉助方に従弟奉公して(かんざし)(こうがい)などの金工を習い、明治五(一八七二)二十六歳にして年期明け、同所で開業、直後親戚の門野勘次の婿養子となり、養家たる上魚屋町に移り金師」を開業し、明治二十年までは金師として子弟も多数を養っていた。たまたま近隣の某が信州に養子にゆき製糸工場を経営したが、煮繭設備の英国製ボイラーの蒸気用カランを求めに神戸に出る途次、留吉にすすめてこのカランを模作せしめたのがきっかけであったともいう。また、彦根周辺には多数の製糸工場があったが、中でも盛大であった山中製糸場へカランを納めていた大阪阿波座一丁目金属販売問屋大野茂三郎にすすめられて、カランの修理・製造に着手したともいわれている。いずれにしても、明治十七~二十年の頃にはカラン製造に転じたが、金職より利が厚く、にわかに産をなした。

時あたかも機械力導入の時代で、多くを舶来品に依存しつつ、簡単な部品から次第に国産化しはじめていたが、問屋大野はバルブ・コック類の有利なるを教え、その製造を指導した。あたかも造船事業・水道工事の盛期に入り、この仕事はたちまちに増大し、今日の成功の道が開けたのである。

二十八年には東京から花沢某、伏見から開出音二郎・鈴木某なる熟練工を呼び、旋盤・ボール盤各一台を購入した。また留吉は性磊落しにして弟子を養う才あり、門野捨次郎・中西安次郎・木船竜五郎・竹田喜八・松永新太郎・広瀬善吉・門野留吉など、後の門野系の業主蓮

が修業したのもこの時期である。三十五年には旋盤も四尺から八尺まで四・五台はそろえるまでになっていた」

 

バルブ工業今日の隆盛は、市民経済に及ぼす影響力はほんとうに大きい。門野留吉氏の先見の明と限りないその努力は、誠に賞讃に価するところである。ここにも開出今人の持つ進取の気性の伝統が表われていると思うのである。

同氏の功を末長く伝えるため、感謝の念をこめた門野留吉氏顕彰碑の建立が関係者の間で計画され、昭和十二年に完成除幕式が行われている。